「あれ?・・・おまえ怪我してるじゃねえか?」
家に連れ込まれたキッドに、小さな探偵が発した第一声はこれだった。
「どっかでひっかけたのか?」なんて独り言のように問いかけられて、反射的に肩の傷に目をやったキッドは、薄々
予想はしていたものの、わずかに驚いた。
直撃は避けたとはいえ、銃の弾道がかすめたのだ。これだけの時間ほおっておいたのなら、本来なら出血多量で、
命が危うくなってもおかしくなかったはずだ。
しかしどうやら人間から猫になったことで、身体を構成する質量自体が大幅に目減りし、撃たれた傷も同時に縮小
されたらしい。
スーツの下でドクドクと血を流していたはずの銃創は、今はわずかな切り傷のようにしか見えない。
まさしく、不幸中の幸いと言うか。
(だからといって問題が解決したわけじゃ、全然ないんだがな・・・)
自分を腕に抱いたまま、心配げに肩の傷を覗き込んで来る大きな瞳に、キッドは小さくため息をついた。
3.
「ええっと・・・救急箱はっ・・・と」
家に入ったコナンは、勝手知ったるというように部屋に上がりこみ、どっからともなく持ってきたタオルで、自分と
キッドを拭いた。その様子にキッドはまた、首をかしげた。
先ほど家に入る瞬間には、彼は過剰すぎるほどに、緊張していたように見えたのに・・・。
なのに一歩家に入ってしまえば、もうここが自らの家であるかのように、我が物顔で振舞っている。
それとも、ここは本当にコナンの家なのだろうか?
例えば何らかの事情により、両親といっしょにこちらで暮らせないため、普段は毛利探偵のところで、暮らしている。
けれどいつか両親が帰ってきて、いっしょに暮らすことになっているため、家の鍵だけは持っている・・・とか。
先ほどの緊張は、留守中に泥棒などの侵入者が居ないか、警戒したもの?
キッドはその考えに、今ひとつ納得がいかなかった。
初めて自分を前にしたときでも、あの子供は、大して緊張していないように見えたから・・・。
理解できないことにもやもやしながら、何となくコナンの声がした奥の方に歩いていくと、開けたままになっている
扉が目に入った。どうやらコナンはこの部屋に居るらしい。
キッドは何気なく部屋の中を覗き込んで・・・そして呆気に取られた。
(おっ・・・おいおい・・・)
木造りの椅子に乗せられた、分厚い数冊の百科事典―――その上に爪先立ちになったコナンが、少しはなれた
箪笥の上に乗せてある救急箱らしき箱に、必死で手を伸ばしていた。
箪笥側に傾くコナンの身体に、当然といえば当然か、椅子も重心をずらし、後方の脚を浮かしかけている。
目を離しているうちに、とんでもない危険行動に走っているコナンに、キッドは慌てて駆け寄った。
『おい、危ねえぞっっ!!』
そう叫んだつもりだったが、実際に口から出たのは、猫の鳴き声だけだった。おまけにそれに気づいたコナンに、
「なんだ腹でも減ってるのか?もうちょっと待てよ」とか言われて、バツの悪いことこの上ない。
キッドの忠告を他所に、コナンは何とか指の先で救急箱を引き出すことに成功したらしかった。しかしここで予想外
だったのは(いや彼のことだから、予想していて敢えてしたのかもしれないが)、救急箱がコナンが想像していたより、
子供の身体にはずっと重かったということだろう。
伸ばした腕にのしかかった箱の重さに、思わず後方にぐらついた身体に、当然のごとく椅子も同方向へと大きく傾く。
「うわっっ!!」
『危ねえっっ!!』
椅子ごとひっくり返ろうとしたコナンの身体を受け止めようと、キッドは今の自分の状態も忘れ、コナンの落下地点へと
滑り込んだ。
(あ。)
手を伸ばそうとして、自分の今の状態を思い出したときには、すでに遅い。
ベチャッという鈍い音がして、キッドはものの見事に、子供の下敷となってしまった。
「あっ、おいっっ!!大丈夫かっっ!!??」
慌てたコナンがつぶれたキッドを抱き上げたが、キッドはわずかに咳き込みながらも、自分のおかげで大した怪我が
無かった様子の、コナンを見上げた。もしも人の言葉がしゃべれたら、いつもの紳士然とした態度も忘れて、思いっきり
罵声を浴びせてしまったかもしれない。
(全然、大丈夫じゃねえ!!)
実際のところ、身体のあちこちは痛かったが、探偵が人一倍、小さく軽かったせいか、打ち身程度で済んだようだ。
そっと試しに動かしてみた前脚、後ろ脚も、特に折れたり、ヒビがはいっている様子もない。
(まったく・・・とんでもねえ、ガキだ)
危険なことをしていながら、まるでそれを自覚していない。そんなコナンの様子にも無論、腹は立ったが―――何より
咄嗟に今の状況を忘れて、助けようとしてしまった、自分自身に腹が立った。
(・・・なあんでこんな生意気で危険なガキを、助けようなんて思っちまったかな・・?)
キッドは不思議でならない。
怪盗キッドは良心的な泥棒である。その態度は、スマートであくまで紳士的―――人を傷つけることを厭い、
困っている人を見かけると、手を差し伸べずにはいられない。世間さまの描いた怪盗キッド像は、そんなものである。
しかしそれは真実の一面でしかないと、その当人だけは知っていた。
どちらかといえば、キッドの行為はすべて、計算に基づいている・・・『打算的』といっても良いかもしれない。
困っている人に手を差し伸べるのは、自分の後味が悪くなるから・・・ということも無論あるが、実は後々への影響を
考えてのことでもある。
何せ、キッドは毎回犯行前に予告状を出し、あれだけ派手なパフォーマンスを大々的に繰り広げているのだ。
警察とは比べ物にならない動員力と、情報量を持つ市民が、万が一敵に回ったら―――幾ら怪盗キッドでも、今まで
みたいに悠長なことはしていられないだろう。
だからこそ、困っている誰かに手を差し伸べ、キッドを『義賊』として印象付けるのは、世間を味方にする上で有効な
行為でもあるのだ。決して、純粋な親切心のみで行動しているわけではない。
そのはずだったのに・・・。
(ま、要するに俺も、負けず劣らずのお人好しってことかね・・・)
キッドはとりあえずは、そう己を納得させ、先ほど探偵を助けた行為を肯定した。
仮にそれ以外の理由が本当はあったとしても、そんなの今は考えたくもなかったから・・・。
キッドの様子に、どうやら身体の異常は無いと判断したのだろう―――コナンは床に転がった救急箱を拾い上げ、
中から消毒液と包帯を取り出し、キッドの傷の手当をしだした。消毒液を吹きかけ、脱脂綿を当てて、上から手早く
包帯を巻く。少々大袈裟な気もしないでもないが、探偵はキッドを単なる仔猫だと思っている。きっとテープで止めた
だけでは、あっさりと取られてしまうことを懸念してのことだろう。
「ん、これで良し・・と」
コナンは救急箱をしまうと、何を思ってか、キッドを顔の前に持ち上げて、じっと見つめてきた。
レンズ越しではあったが、その鮮やかで綺麗な瞳に正面から見つめられ、キッドはドキっとする。
「・・・・・・首輪がねえなあ・・・毛並みといい、艶といい・・・飼い猫だと思うのになあ・・?」
人にも慣れてるみたいだし。
そういって頭を撫でるコナンの手から、キッドは身体をよじって抜け出した。別に嫌だったわけではない。
ただ、なんだかくすぐったいような、気恥ずかしいような・・・。
そんな、妙な気分になったからだ。
「ちぇっ・・・つれないヤツ」
そんなキッドにコナンは苦笑いを浮かべると、それ以上は無理強いをせず、そのままフローリングの床に、
寝転がった。
しばしその空間に、沈黙が降りた。
***********
雨は変わらず降り続いているようで、屋根を打ち付ける音や、樋を伝って零れ落ちる水の音が、まるでクラシック
音楽のように合わさって、不可思議な旋律を作り出している。
そんな中、物憂げな仕草で、床を転がったり、もぞもぞと動いたり、身体を丸めたりするコナンを、キッドは何をする
でもなく、ぼんやりと眺めていた。
床に顔をつけて、雨音に耳を澄ますかのように目を閉じるコナンは、彼こそがまるで猫のよう・・・。
そのまま見つめていると、不意に落ちていた目蓋が持ち上がり深蒼の瞳と目があって、キッドは息を呑んだ。
いつの間にか眼鏡を外していたらしく、遮るものが何もないその瞳は、驚くほど深く、鮮やかな色合いをしていた。
まるで宝石のように美しいそれが、整った顔立ちと合いあまって、どうしようもなく目をひきつけられた。
そして、それによりキッドは気づく。
コナンはおそらく、眼鏡をかけるほど視力が低くはないのだ。先ほど目があったときも、視点はしっかりとキッドに
あっていたし、見えにくさを補うために目を凝らすような様子もなかった。
それでもこの子供が、いつも眼鏡をつけている理由―――それはきっと。
(この印象的な顔を、隠すため、か・・・・・・しかし何のために?)
確かに賢すぎる子供というのは、周囲と要らぬ摩擦を起こす。キッド自身もそういう子供だったし、両親はトラブルを
避ける処世術として、普通の子供を装うことを教え込んだものだ。
その上、これだけ顔立ちまで整っているとなれば―――目の前の子供は否応なしに、他人の目を惹きつけてしまう
に違いない。
だから普段伊達眼鏡をかけ、周囲の大人たちに対して無邪気さを装っている理由は、なんとなく見当がつくのだが・・・。
キッドは再び、首をかしげる。
目の前の子供に至っては、賢すぎる・・・という域を、軽く超越しているようにも思えるのだ。少なくとも自分が探偵と
同い年だった頃には、ここまで大人びた思考はさすがに持っていなかったと思う。
自分を追い詰めたときの、手際ひとつとってもそうだ。
思い起こせば彼の周到さは、ただ人並み以上の頭脳を備えている・・・というだけでは説明しきれないものがあった。
事件現場でトリックを暴き犯人を追い詰めるには、優れた頭脳だけではない―――変化する状況にも即座に対応できる
柔軟な思考と、相手の先を読む正確な判断力、両方を要求されるのだ。
それらを身につけるには、どうやったって場数を踏まなきゃならない。キッドですら最初の何回かの犯行では、手間取りも
したし、危うく捕まりそうになったことだってある。刑事がいう、『現場100回』というのは、単なる引用ではないのだ。
年かさを得た人物だけが持ちえるはずの、『経験』というゆるぎない指針―――それをあの探偵はすでに備え持って
いるとでもいうのだろうか?
(んな、馬鹿な・・・)
そうは思うのものの、そうでなければ自分があそこまで追い詰められた理由に、説明がつかない。
それに前々から思っていた。あの子供を前にして、たまに感じる違和感。
見かけは子供だというのに、備え持つ思考にはたまに、まるで老いを重ねた賢人のような、狡猾さすらも透けて見えた。
そう、まるで―――外側は子供、内側は大人とでもいうような、ひどくチグハグな印象。
そんな思考に頭をめぐらしていたからだろうか?・・・いつの間にかコナンが、部屋から居なくなっていた。
不思議に思って入り口に足を進めると、ちょうどコナンが、ミルクを注いだ皿を持ってきてくれたところだった。
「飲めよ・・・腹減ってんだろ?こんなもんしか、ないけどな・・・」
キッドは目の前の床に置かれたそれを、思わずまじまじと見つめた。微かに湯気の立つそれからは、甘い匂いが
漂っている。
途端に空腹を思い出して、スプーンをねだれないのはやや不満ではあったものの、キッドはそれに舌をつけた。
動物のように四つん這いの体勢で、床に置かれた皿のミルクを舐める・・・ということにはやや抵抗があったものの、
その皿はどうやら普段、食卓で普通に使っているもののようだったし(動物のお古だったら、幾らキッドが今は猫でも、
抵抗があっただろう)、それにミルクは程よく温められていて、とても美味しかった。
気が付いたときには、キッドは夢中でミルクを飲んでおり、全てを飲み干した頃には、冷え切った身体がほっと息を
つくのがわかった。
身体があったまり、ほど良い満腹感を覚えると、今度は強烈な眠気が襲ってきた。
猫の身体に変えられれば、やはり猫と同じ習性になるのだろうか?
(・・・こんなことしてる・・・場合じゃねえ・・・のに)
そうは思うのだが、今日一日は本当に大変だったのだ。仕事の後も組織の連中に追い掛けられ、負傷し、おまけに
未だこの状況だ。疲れきったキッドの身体は、ひたすらに休息を求めていた。
それに・・・繰り返し頭を撫でる手が、ひどく気持ち良い。
誘われるようにキッドの目蓋は、自然に落ちようとしていた。
(―――こいつは探偵なのに・・・)
心を許してはいけない。
そう思うのに・・・。
何でこんなに、安らぐのだろう?
つづく
やっと書けた第3話です。待っていてくださった方、お待たせしてどうもすみません。
ていうか、もう次の話ぐらいまでざっとは書いてあるのに、どうしてこうも手直しに時間がいるかなあ・・・。
話もまったく大筋まで進んでいないし。でもいい加減、最後まで書きたいんだが・・・そういってる連載が
いったい幾つあるのだろう?(大汗)
H19.5.31