B恨みと妬みが交わっているこの世界で
それはとても小さな音だった。 多分常人では、増してこの距離では、決して聞き取れるはずの無い―――けれど人外の生き物である一目蓮の耳には、はっきりと聞こえた。 キュ、キュ、という音は、歩いて上履きが廊下とこすれるだろう。 そしてサラサラという綺麗な澄んだ音は、彼女の長い黒髪が、揺れてぶつかって立てる音。 (来た来た来た・・・) 一目蓮はカラリと科学室の扉が開くのと同時に、机に突っ伏し、寝ているフリをした。 相手も慣れたもので、臆した様子もなく部屋に入ってくると、一目蓮を見降ろしてぼやいた。 「・・・もう・・・また寝てる」 呆れたように漏れた声の、なんと愛らしいことか。 一目蓮は内心笑いたい気持ちを押し殺して、寝たふりを続けた。 すると、彼女は一目蓮を起こそうと、肩を揺さぶりはじめた。 「・・・先生・・・起きてください、先生!」 肩に触れた手の温度が嬉しい。 屈み込んで肩を揺らした拍子に、滑り落ちた長い黒髪が、頬を撫でるのが心地良い。 このままうっかりと、本気で寝入ってしまいそうな気分になったが、それでは『彼女』を困らせるだろう。 一目蓮は薄目を開けて、目の前に立つ少女を見た。 白い肌。 緑の黒髪。 以前と色こそ違うが、増さるとも劣らない魅力でもって、一目蓮を惹き付けずにはおかない、黒水晶の瞳。 誰よりも、何よりも、愛おしい・・・。
(―――お嬢・・・)
ふわり・・・と鼻先を霞める、甘い香り。 それに、一目蓮はくらくらして酔いそうになった。 「せ、先生っっ!?―――ちょっっ!!//」 胸元で響いた焦ったような少女の声に、一目蓮ははっとなった。 どうやら無意識のうちに手を伸ばし、想いのままに少女を抱きしめてしまっていたらしい。 (―――まずい!)
「・・・んんん〜・・・・もう食べられないよお・・・」
わざとらしく寝ぼけを装った声に、羞恥とわずかなおびえに引きつっていた少女の身体からは、安堵のあまりかすぐに力が抜けた。 それに気がついて、そのまま離したくない・・・という衝動が走ったが、少女に嫌われたくはない。 一目蓮は目を見開くと、焦ったように大声を上げて、少女から手を放した。 「あ、ごっ、ごめんっっ!!」 ひどくあっさりと離れた温もりに切なさは募ったが、一目蓮はそれを何とか心の奥で押し殺した。 そんな一目蓮の内心も知らず、彼女―――愛莉が、わずかに呆れた顔をして言った。
「・・・もう・・・寝ぼけすぎですよ、先生?・・・・・私はハンバーガーでも、カレーライスでも無いんですから。私だからまだ良いですけど、他の生徒だったら『セクハラだ』って訴えられちゃうとこですよ?」
「ゴメン、ゴメン」 困ったように頭をかきながらも、一目蓮は今の愛莉の言葉が気になって仕方がなかった。 (・・・『私だから良い』って―――それってどういう意味、お嬢?) 彼女としては、何気なく云った言葉なのかもしれない。 けれどそれが他ならない、この少女から出たものだったから――― 一目蓮は気にせずにはいられなかった。 それでもその意味は訊けない。 訊くわけにはいかない。 だって、やっと彼女を見つけたのだから・・・。 決して前と同じではないが、微かでも彼女との接点を得られた今、一目蓮はそれを失うことを何よりも恐れていた。 だって彼女は今までの、自分の前をただ素通りしていった人間たちとは違うのだ。 側に居たい。 警戒されたくない。距離を置かれたくない。 だから自分の気持ちも、気づかれるわけにはいかない。 せめて彼女がもう少し成長するまで、姿を現すのは止めておけば・・・と今更ながらに後悔していないわけではない。 今の彼女に自分がそういった感情を向けるのは、世間一般の常識に照らし合わせると問題だ。 それでも自分がそれまで我慢できたとは、一目蓮は思わなかった。 だって彼女を見つけた瞬間に、声を聞きたくて―――話したくて。 その瞳に自分を映してもらいたくて、たまらなくなった。 だから一目蓮は、すぐさま次の日に、彼女の通う学校にもぐりこんだ。 どんな形だって良い。 彼女に自分の存在を認めてもらいたい。 そう思ったのだ。 今のところそれは、うまく行っているようだが・・・。
「それでどうしたの、前園さん?」 「もお・・・また忘れてる。プリントを集めてもって来いって云ったのは、先生じゃないですか」 「あ、そうだった・・・ゴメンゴメン。お詫びにコーヒーでもおごるから許して?」 「先生の入れるコーヒーすっごく美味しいから、残念ですけど・・・もう下校時間ですから、気持ちだけ受け取っておきます」
彼女はプリントを一目蓮に渡すと、ぺこりと会釈をひとつして、素っ気無く部屋を出て行った。味気なく閉まった部屋の扉を見やり、一目蓮はため息をつく。 勿論、少女が来ることを、一目蓮が忘れていたはずもない。 彼女と少しでも親しくなりたくて――― 一目蓮はたまにこうやって、さりげなく少女との接点を増やす工作をしていたが・・・今日はそれがうまく行かなかったようだった。 (・・・ううん、残念・・・でもお嬢は今日は、何を急いでいたんだろうね?) プリントを渡すと、なんだか急いだ様子で素っ気無く部屋を出て行った。 愛莉はいまどきの少女に珍しく、塾のひとつも通っていない上、学級委員の仕事が忙しいので、特に部活動もしていないのだそうだ。 そのためいつもなら一目蓮に誘われるまま、出される甘めのコーヒーを飲みつつ、世間話のひとつもしていくところなのだが・・・。 今日は何か用事でもあったのだろうか?
(・・・・ふむ、調べてみるか)
それはちょっとしたきまぐれだったが、良い考えのような気がした。 一目蓮は目をつぶり、隠された第三の目で、学校の隅から隅までを見渡した。 そういえば、この目を使うのも随分と久しぶりのような気がした。 あいと離れて以来、一目蓮がその力を使ってまで目に映したいものなど、存在し無かったから・・・。
(お、居た居た・・・お嬢だ―――まだ帰ってなかったのか・・・ん?)
一目蓮は久しぶりに使うせいか、イマイチピントが合わない視界をはっきりさせるために、無意識に目を細めた。 映った景色は、雑木林に、日が当たらず湿った土。 薄汚れた灰色のコンクリート。 どうやら学校の裏庭らしい。 放課後だというのに、帰りもせずに、そんな場所に居るなんて・・・辺りを見回すと、彼女は一人っきりではなかった。 どうやら同い年くらいの、男子生徒と話をしているらしい・・。 クラスメートだろうか? 何となく気になった一目蓮は、そのまま一瞬のうちに裏庭へと移動した。 しかも二人の目に付かないように、建物の影に、だ。 さすがにこの距離では、科学室からでは話の内容まではわからない。 あるいは一目蓮には、微かな予感があったのかもしれない。
「・・・・好きだ!―――ずっと好きだったんだ、愛莉!!」
男子生徒は真っ赤になってそう叫ぶと、いきなり愛莉を抱きしめ、頬にキスをした。 「亮・・・太・・・//」 愛莉の口から、男子生徒の名前と思しきものがこぼれ落ちる。 自身も顔を真っ赤にして、硬直しているようだったが、けれど、嫌がっている様子は見られなかった。
「へへっ・・・返事はいつでも良いぜ!//」
その様子に手ごたえを感じたのか、少年は照れたように笑うと、手を振りそのまま走り去ってしまった。 愛莉は顔を真っ赤にしたまま、呆然とした様子でその場に立ち尽くしていたが―――やがて唐突に現実に戻ったのか、少年に口付けられた頬を手で抑えて、拗ねたようにつぶやいた。 「もう・・・返事はいつでも良い、なんて・・・ホント亮太はのんき者なんだから・・・」 けれどその顔はすぐに、照れくさそうな・・・嬉しそうな笑顔に変わる。 それは前世だけでなく・・・今生の彼女に出会ってからも、一目蓮が一度も目にしたことがない、幸せそうな表情だった。
「遅すぎるわよ・・・ばあか//」
そうつぶやいて微笑む愛莉を、一目蓮はただ・・・呆然と見ていた。
つづく |
さて・・・やっとこの辺まで、話をもっていけた感じだな。元々この話は裏使用になる・・・という話に
なっていたので、多分次回は隠しになるかと。
どこに隠すかは・・・書いてからその程度を見て、決めることにします(笑)