だからその手を握って



何度も口づけを繰り返すうちに、承太郎は徐々に慣れた手順に進みだす。
ジョセフもそれを受け入れようとしていたのに、不意に今の状況を思い出し、承太郎の胸に手を押し当てて止めた。
そういえば今の同居人は、承太郎ではないのだ。
幾ら相手が実の兄だろうと、濡れ場をみられるのはバツが悪い。

「承太郎、待って…ここじゃあ」
「ああ、おまえの兄貴か。大丈夫だ」
「大丈夫って…なに…?…ん、」

深いキスを何度も落され、ジョセフは半ば蕩けかけた思考のまま問うた。
すると承太郎はくすりと笑って言ったのだ。

「気にすることはねえ。多分ジョナサンは、今日は帰ってこないと思うぜ?」
「え?…それって…まさ…か」
「いいからほっとけ。おまえは俺だけ見とけよ」

そういって柔らかな笑みと共にまた口づけを落してきた承太郎に、やがてジョセフの疑問は意識の彼方へと溶けて消えたのだった。

 

どうして?


その姿を見たとき、ジョナサンはそう問いかけることが出来なかった。
誰より幸せになって欲しかった。だからひと月前、別れすら告げずに、黙って彼女の前から姿を消した。
もう二度と会うことも、会いに行くこともない――出来ないと思っていた。
しかし今、彼女はジョナサンの視線の先に立っている。
沈みゆく日の光が逆光で当たっているせいで、その表情は良く見えなかったが。
けれど確かにそれは”彼女”だった。

「…エリ…」

ジョナサンは咄嗟に、歩み寄ろうかどうしようかと迷った。
しかし次の瞬間には彼女が、あっという間に距離を詰めてきて。
立ち尽くすしか出来ないジョナサンの前に立った彼女は、いきなり手を大きく振り上げて、ジョナサンの頬をひっぱたいた。
「っ!」
女性の力で手のひらではあったが、それは結構なバチンという音がした。

「…痛っ!」
「…当然の報いだわ。私はもっと痛かったのよ?」

それは怒りを感じさせる冷たい口調だったが、それでも彼女は叩いた手を振りながら微笑んだ。
それだけでジョナサンにはわかってしまう。
彼女、エリナがここに現れたのは、決して”偶然”なんかではない。


「…どうしてここが…?…てっ、そうか、承太郎か」
「ええ。承太郎は私と違って随分と前から、ジョセフが消えたときのことを考えていたようね。だから財団への協力を止めなかった。いざというときに助力を得られるように、と」
「…ということは、ジョセフの元にも今頃彼が行っているのか」


ジョナサンはその事実にもため息をつく。
最近のジョセフの様子から、もしも今承太郎が現れたら、ジョセフにはそれを拒むことは出来ないだろう。
ジョセフは情が深く、いつも”獲物”として契約を結んだ相手を、”ただの同居人”と割り切ることが出来ないから。
だがそれにしたって。

「…エリナ…キミならわかってると思っていたのに」
「…ええ、そうね、わかってたわ…いつか必ず貴方が去ってしまうことも―――貴方が私の”幸せ”を、誰より願ってそうしてくれたこともね。でもね、ジョナサン…私怒ってるの。貴方が黙って去ったことじゃない。貴方が私の”幸せ”を勝手に決めつけたことを、よ」
その台詞に、ジョナサンはふと思いついた名前を口に出す。
「…承太郎のこと?」
「それも含めて、よ。だいだい承太郎は最初っからジョセフしか見えていないじゃない―――そんな他の誰かに首ったけの人を私の”恋人候補”になんて、失礼極まりないと思うわ」

エリナが同居中によく見せていたような拗ねた口調でそう言ったため、ジョナサンは思わず状況も忘れて笑ってしまった。
しかしそれを目ざとく見つけたエリナが睨み付ける。

「…何がおかしいのかしら?」
「…あ、いえ…別に何も」
「まあ良いわ。私が怒ってるのはね、ジョナサン―――貴方が私の”幸せ”は”貴方と別れた先にある”と勝手に決めつけたことよ。確かに貴方は私とは違うわ。多分、生物としてだけではなく、年の取り方も、生きる長さも、何もかも違うのね。でもね…ジョナサン。私は貴方と共にいたいの。これから先も、ずっと」

その言葉にジョナサンは思わず目をつぶった。
エリナがここに現れたときから、その台詞を言われることは覚悟してはいたが、それでも実際にそれが現実となると、予想よりも遥かに強い”衝撃”がジョナサンを襲った。
そして思った。

(―――ああ、僕にも、まだ”こんな言葉”を期待する感情があったのだな)

けれど、それを受け入れるわけにはいかなかった。
だってそれをすれば、ジョナサンはエリナの未来を摘み取ってしまう―――優しい夫、可愛い子供。
そのまま行けば確実に彼女が手に入れるに違いない、”人としての普通の幸せ”。
それを奪ってしまうことになる。
それだけは出来ないと思った。
「ジョナサンの作る料理はいつだって美味しいわ」と、いつも笑って食べてくれた彼女が、どうしようもなく大切だからこそ、なおさら。


「…駄目だ、エリナ…そんなことは出来ない」
「どうして、ジョナサン?私が嫌い?」
「っ!…そんなわけ、ないじゃないか」


ジョナサンは思わず詰まり、出てしまった言葉に舌打ちする。
ここは詭弁を弄して、彼女を一時的に傷つけてでも、エリナを遠ざけるべきシーンだろう。
なのに彼女を前にした自分は、丸っきりでくの坊か何かのように、馬鹿正直に言葉を吐き出してしまっている。
そして今更気が付いた。
いつも前向きで、真っ直ぐな彼女に―――自分がいつの間にか、「恋」をしていたことを。
そのことをあらためて自覚してしまって、ジョナサンは途方に暮れる。

(…エリナの”幸せ”を守るためには、絶対にそんなの駄目だったのに)

ジョナサンは自分が、ジョセフや周囲に思われているほど、”自制”が効く人間だとは思っていなかった。
ジョナサンにだって、身勝手な部分や愚かな部分は、確かに存在しているのだ。
だからこそ、彼女に「恋」をしては駄目だったのに。
一番惹かれてはならない相手に、惹かれてしまった。

だから今のジョナサンに出来るのは、せめてエリナが自らジョナサンの元を去るように、彼女を説得することだけだった。
けれどそんな状況で、満足な説得力のある言葉が浮かぶはずもない。
増してやジョナサンに、大切に思っている彼女を故意に傷つけるなんて、出来るはずもないのだ。
だからそれは、どちらかといえば、”懇願”に近かっただろう。

「…でもエリナ…それをすれば、僕は君から”普通の人としての生活”を奪ってしまうことになる―――僕らは君が想像してるより、ずっとずっと長寿なんだ。何年も同じ場所で生活は出来ないから、当然数年ごとに居場所を変える。友達とも家族とも、いっしょに居られなくなる」
「覚悟はしてるわ」
「…どうしてそこまで?」

それは自然と”非難”の混じった声となってしまっていた。
”幸せ”を、”未来”を、自ら放棄しようとするようなエリナの言葉を、どうしたって受け入れるわけにはいかないのに―――なのに心のどこかで、それを喜んでいる自分がいることを、ジョナサンは自覚していた。
でもエリナは、自分以外の多くの人に―――家族に、友人に、皆に愛されていたのだ。
そんな彼女を彼らから奪い、”独り占め”する権利なんて、自分にあるはずもない。
だからこそ、彼女から自分を”見限って”欲しいのに。
なのに彼女はそんなジョナサンの想いも知らず、笑ってこんなことをいうのだ。

「そんなの決まってるわ―――私は貴方が誰よりも好きなの、ジョナサン」

「…エリ…ナ」
「私だってこのひと月の間、うんと考えたのよ。貴方と別れて、結婚して家庭を築いて…って。でもね、その想像の中で私と一緒にいるのは、いつだって貴方だった。貴方のいない未来なんて、私にはもう、考えることが出来ないの」
「…っ!駄目だエリナ」

ジョナサンは、自分のどこかがエリナの言葉に歓喜しているのに、気が付いていた。
これ以上、そんなことを言っては駄目だ。
自分を喜ばせては駄目だ。
そう思うのに、いつの間にか自分のどこかに”期待”が生れてしまっていた。
もしかしたら、このまま”彼女”と離れずに済むのではないか。
そんなどこまでも身勝手な、エゴのような感情。
でもエリナのためにも、ジョナサンがそれに流されるわけにはいかなかった。


「僕は君に、”普通の幸せ”をあげられない―――君と僕とは種族が違うんだ。子供も作れない。一生、キミだけに添い遂げるとも誓えない。そんな僕が君の未来を積み取るわけにはいかない」
「…ジョナサン、また私を怒らせたいのかしら?―――言ったはずよ、私の”幸せ”を決めつけないでって」
「っ!…だけどっ、」
「子供が、普通の幸せがそんなに大事なの?―――私にはそうは思えないわ。それを得るために貴方といられないっていうのなら、そんな幸せ、私は要らない。それにね、ジョナサン…貴方は勘違いしてるわ」
「…勘違い?…僕が?何を?」
「貴方は私に『幸せになって欲しい』と言いながら、私を独りに、不幸にしたわ―――私が貴方を憎んだのは、あの時だけよ。貴方が私を捨てて置き去りにして、私から”幸せ”を奪いとったとき…」
「っっ!!」


その言葉にジョナサンは詰まった。
それはどんなに否定したくとも、否定できない事実だった。
ジョナサンはエリナの未来のために…といって、彼女を独りにして、置き去りにしたのだ。
ジョナサンと共にいて、満たされていたはずの彼女の”幸せ”を奪いとったのは、まぎれもない事実だ。
それに改めて気づかされて、言葉を失ったジョナサンの手を、エリナがそっと握る。
それを振り払うことなど、今のジョナサンには勿論、出来なかった。


「私が望むのは一つだけよ―――貴方がずっと側にいてくれること。それが叶えられれば、私は何もいらない。それだけで誰より”幸せ”なの。ねえ、ジョナサン…貴方は私を”幸せ”にはしてくれないの?」


うつむいていたジョナサンは、やがて顔をあげた。
いつの間にか口もとには笑みが浮かんでいた。
しかしそれはエリナから見れば、きっと泣き笑いのような表情だったろう。
何故ならこれから自分が口にしようとしていることが、”欺瞞”であるということは、ジョナサン自身にもわかっていたから。
けれどそれでも。


「エリナ、君は大した策士だよ―――そんな風に言われたら…叶えないわけには行かないじゃないか。一緒に居ないわけにはいかないじゃないか」


「ジョナサン!」
エリナが胸に飛び込んでくるのを、ジョナサンはしっかりと抱きとめ、抱きしめた。2年以上共に暮らしていたというのに、こんな風に触れ合ったことさえ、いままでなかった。
けれど腕の中にいる彼女が、その体温がどうしようもなく愛しいと、ジョナサンは思った。
放したくない、とも。

「…もう、どこにも……で」

腕の中の彼女が、小さな声でつぶやいた。
それは意地っ張りな彼女がジョナサンに初めて聞かせた、涙声交じりの懇願で。

ジョナサンは返事の代わりにそっと、エリナの唇に自らのものを重ねた。


エピローグ.




その後、二人は手をつないで、駅までの道のりを歩いた。
これまでのことを、ポツリ、ポツリ、と話しながら。
その途中で、ジョナサンは先ほど浮かんだ疑問を口にした。

「…ところでエリナ、さっきの台詞(セリフ)って…」
「あら、気が付いた?半分は承太郎の受け売りよ」
「あ、やっぱり」

ジョナサンはわかっていたこととはいえ、ガックリと肩を落した。
どおりでエリナにしては反論の隙がない言葉で、ジョナサンの逃げ道を適格に塞いでくると思ったのだ。
どうやらそれは、相当に頭が切れるらしい弟の恋人の入れ知恵だったようだ。
二人はジョナサンたちの意図とは違う意味で、このひと月の間に、良好な関係を築いていたのだろう。
それでもエリナの言葉が心に沁みたのは、それがエリナの本心でもあるとジョナサンにはわかっていたからだ。
そして彼女の望みが、自分の本当の望みでもある、と。
そのとき不意にエリナが言った。

「…そういえばジョナサン、このまま帰ると、きっと私たち承太郎とジョセフの邪魔をしてしまうわ―――私、承太郎に恨まれるのは嫌よ?」
「っ、」

それを聞いて、ジョナサンは微かに詰まる。
そうだった―――自分の元にエリナが来たように、きっとジョセフの元には今、承太郎がいっているに違いないのだ。
ジョセフが彼を拒めたとは思えない。
ということは、今頃二人は彼らなりの方法で、互いの絆を確かめ合っているはずだ。
自分たちがこのまま家に帰れば、必然的に彼らの邪魔をしてしまうことは必至だろう。

「…私たちもホテルにでも寄っていく?」
「っっ!!//」
「…ふふ、冗談よ―――ジョナサンって、意外に初心なのね」

エリナはクスクスと笑って見せたが、思わず無様に動揺してしまったジョナサンは、そのことでエリナを傷つけたかもしれないと思い至って舌打ちした。
エリナの数倍生きているジョナサンは、無論、そういった関係になった”人間”も過去に何人かいないわけではないが。
ただ、エリナとの関係は、いままで男女のそういった”生々しい”部分は、敢えて意識から切り離して、介入させずに来ていた。
それはそういった方面に想いを巡らせば、自分が彼女に”惹かれてる”と嫌でも気づいてしまったからだろうと、ジョナサンは思う。
それでも、エリナの想いを受け止め、受け入れると決めた今だからこそ、彼女との関係は、これからゆっくりと温めていきたいと思っていた。
勿論、彼女に触れたいという欲求が、全くないとは言わないが、大切だからこそ、急ぎたくないのだ。
そう思えることが、なんて幸せか。


「…その…エリナ…別に君とホテルに行くのが嫌ってわけじゃなくって//」
「ふふ、わかっているわ…貴方が私のことをとても大切に思ってくれているってことは―――でもあんまり待たせないで。さもないと私、すぐにしわくちゃのおばあさんになって、綺麗じゃなくなってしまうもの」
「…君はしわくちゃのおばあさんになったって綺麗だろうし、僕は全然問題ないよ」
「っ!//も、もう…ジョナサンったらいけない人!」


それはジョナサンの何の飾り気もない本心だったが、その言葉にエリナは赤面して、顔を抑えた。
その様子がどうにも可愛らしくて、ジョナサンは微笑み、今一度彼女に口づけたのだった。



                

おわり

2016.3.21(ピクシブより転載)

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