だからその手を握って



その日、俺は行く先を見失って途方にくれていた「野良ネコ」を拾った。


その日は久しぶりの雨だった。
時間的にもすでに薄暗く、辺りは人通りもなく、承太郎は傘をさしてぼんやりと歩いていた。
そんな折、シャッターの閉まった店の軒先に、座り込んで膝を抱えている男がいたのだ。

「大丈夫か?」

思わず声をかけたのは、男の恰好が今の季節にしてはやや薄着で、濡れて肌の一部が透けて見えていたからだった。きっと突然の雨に降られたのだろう―――その柔らかそうな黒髪も、水滴を端々からしたたらせている。
そんな風に冷静に相手を観察していたというのに、男が顔をあげた瞬間、承太郎には時が止まったように思えた。

「…大丈夫。慣れてるから」

そうつぶやいた男の瞳は、吸い込まれそうな深い緑色をしていた―――なのにその淵から、今は雨ではない水滴が、次々に零れ落ちている。
その涙を止めたいと思った。だが同時に、いつまでも眺めていたいと思った。
だからかもしれない。
らしくもなく「大胆」とも思える行動に出たのは。


「このまま放って帰って、風邪をひかれても寝ざめが悪い。家はこの近くだ…雨宿りをしていけ」


承太郎は男の腕を取ると言った。
自分でも無理のある”言い分”だとは思っていた。けれどこのまま目の前の男と別れてしまうのは、何故かどうしても「嫌」で。
何らかの「接点」を持ちたいと思ったのだ。
そんな承太郎の下心を知ってか知らずか、男が言った。

「…見知らぬ人間を、そんなに簡単に連れ込んで良いの?―――俺、”化け物”かもしれないよ?」
「構わないさ」

それは本心からの言葉だったが、よもや男が本当に”化け物”であるとは、そのときの承太郎は無論、思わなかった。
けれど、承太郎の言葉にくしゃりと顔をゆがめて見せた子供のような笑顔が、「可愛い」と思った。
だから、男を誘った自分の「本心」がどこにあろうと、今日のことでこの先何が起ころうと。
全部が「どうでも良い」と思ったのだ。
ただ、男の手を引き、立ち上がらせた途端に、真っ直ぐに承太郎だけを捕らえた視線―――それに。
たまらない満足感を覚えたのは確かだった。

「俺は空条、空条承太郎だ…おまえは?」
「ジョセフ」

「…ジョセフか」
口に出したらその名前は何故かひどく口に馴染んで、何度も呼んだことがあるような気分になった。
自分でも不思議だとは思ったが。
けれどこれだけは確信出来た。
これから先、何が起きようとも。


(きっと俺は―――こいつを拾ったことを、後悔することはないだろう)





フェンスの向こう数十メートル先のグラウンドで、子供たちがサッカーをしている。その様子を、ジョセフは数十分前から、ベンチに座ってずっと見ていた。
しかし視線を一心に向けていた、他の子供たちを先導していた金の髪の子供が、不意にけつまづいて転ぶ。
「あ!」
反射的に身を起こそうとしたとき、近くで見ていたらしいその子の”父親”が、すぐさま駆け寄ってその子を抱き起こすのが見えた。
膝を擦りむいたのだろう。泣くのを必死で我慢しているらしいその子の頭を、父親が撫でている。
誰がどう見ても”微笑ましい”と言える光景だ。
ごく普通の親子の、ごく普通の”幸せ”と思えるやりとり。

「…シーザーくん、幸せそうだね」
「兄貴」

突然後ろから声がしたが、ジョセフは振り向かなかった。
声の主が誰かはわかっていたし、そもそも今日”この場所”を指定したのは、他でもない兄のジョナサンだったからだ。

「でも奥さんはスージーQじゃないみたいだ」
「僕はそうなると思っていたよ…だってシーザーくんはジョセフを深く”愛して”いたからね―――そのキミに”引合された”相手なんて、到底恋愛対象には出来なかったと思うよ」
「…お似合いだと思ったのに」
「そうだね。二人ともとても純粋で、綺麗な魂の持ち主だった―――でもそれとこれとは、話が別だと思うよ」
「…まあね」
「”承太郎”も…もしかしてそうかもね」

ジョセフは思わず黙った。
ジョナサンの言うように、もしかしたら承太郎もまた、ジョセフのお節介を”拒絶”するのかもしれない。
それでも。

「…でも俺が、最後に承太郎にしてやれるとしたら…これくらいしかないから―――でも、兄貴こそ良いの?エリナさん、大切なんじゃないの?」
「…大切だよ」

ジョナサンが不意に黙った。割り切りの良い兄にしては、珍しいことだと思った。
「…でも、僕も彼女にしてやれることといったら、これくらいだからね」
ジョナサンの視線が”シーザー”とその”息子”に向いたのがわかって、ジョセフも思わずそちらに目をやる。
別れはどうしたって避けられないけれど、せめて…と思う。
せめて彼らがあんなふうに、「幸せ」になる手助けが、少しでも出来たら、と。

「じゃあ、予定通り今度の週末に」
「わかった」

ジョセフがうなづいた途端に、ジョナサンの気配がその場から消えるのがわかったが、ジョセフは振り向かなかった。
そしてただ、目の端に映る幸せそうな親子を、じっと見つめていた。



*****



「貴方がエリナさん?初めまして、お噂はかねがね。ジョナサンの弟、ジョセフでーす。それと同居人の承太郎」
「空条だ」
「エリナ・ペンドルトンです、よろしく」

その日、ジョナサンとジョセフは合流して、「ある場所」に出かけることになっており、エリナと承太郎はそれに同行することとなっていた。
ちなみに前日は、それぞれのペアが別々に宿を取り、旅行を楽しんでいる。
ジョナサンとエリナは仕事をもっているため、それほど長期の休みは取れないのだ。そのため、2泊3日の旅行の最終日だけ、ジョセフたちと合流することにしたのだ。

挨拶が済んだところで、ジョナサンが車を持ってやってくる。ジョセフが助手席に乗ったため、自然と後ろは承太郎とエリナのペアとなった。
二人は隣となり、何となく気まずげに顔を見合わせたが、承太郎が気を使ったのか、話しかけてきた。

「…アンタはどのくらい、アイツの兄貴と住んでるんだ?」
「もうすぐ3年くらいかしら?」
「そうか…俺は2年半くらいだ」

そこで会話が途切れる。
それを見計らったように、ジョセフとジョナサンの会話が車内に響いた。

「兄貴、今日はどこに行くの?」
「ふふ、ついてからのお楽しみだよ」
「ちぇ、秘密主義なんだから」

ジョセフの拗ねたような、子供っぽい表情に、承太郎が思わず微笑んだのがわかって。
エリナも吊られて笑った。


*****


「…ここって」

ジョナサンが3人を連れてきたのは、意外なことに”特別養護老人ホーム(special nursing home for the aged)”だった。
ジョナサンは入口で目的らしい相手の居場所を聞くと、そのまま三人の問いかけるような視線にも答えず、すたすたと歩き出した。
目当の人物は、どうやら個室をとっているらしい。
ジョナサンがコンコンと扉を叩くと、「どうぞ」と看護婦らしき人が、扉を開けてくれた。

「ディオ・ブランド―さんに会いに来たのですが」
「もしや、ご家族の方ですか?」
「いえ、古い友人です」
「そうですか…ディオさんに残された命はそれほど長くはありません。ご結婚もされていないと聞いていたので、せめてご兄弟がいれば、お知らせしようと探していたのですが―――どうぞ。ただ、もう他人を認識することは、ほとんど出来ないですが」

ジョナサンに続いて三人が部屋に入ると、そこには完全に”寝たきり”となった患者を介護するための設備が整っていた。
ジョナサンが会いに来たらしい、”ディオ・ブランド―”という老人は、点滴を腕に付けられたまま、ひっきりなしに空を睨んでいた。痴呆が進んで、来客を認識することすら、もう出来ないのだろう。
「面会が済んだらお呼びください」と言って、看護婦は一礼して出て行った。
エリナや承太郎は、なんとなく居づらく、お互いに困惑した顔を見合わせていた。


「ディオ…」


それでもジョナサンは寝たきりの老人に近づき、優しげに彼の名を呼んだ。
すると、ディオの目が不意に見開き、何かを主張するかのように、その右手を懸命に差し出したではないか。
ジョナサンはそれを優しく手に取り、不意に動きを止めた。

「「っっ!!」」

承太郎とエリナは、覚えのあるその雰囲気に、息を飲んだ。
ジョナサンが何をしているかが、わかったのだ―――彼は、ディオの”命の残り火”を、吸っているのだ。
しかし、自らが殺されかけているというのに、ディオはどこか幸せそうな顔をして、笑っていた。
やがてジョナサンがゆっくりと、ディオの手を放す。
ディオは顔が蒼白となり、ぐったりと目を閉じている。
まだ死んではいないだろうが、その寿命が残り数日となったのは、もはや目に見えて明らかだった。

声を失ったエリナと承太郎とは裏腹に、ジョセフは平然と「兄貴、ナースコールする?」と尋ねていた。
それに頷いたジョナサンの初めてみるような感情のない表情を、エリナは初めて”怖い”と思った。



*****


車を取ってくる―――そういったジョナサンに、「あ、俺も行く」とジョセフがついて行ったのは、すでに1時間ほど前だ。
その間、エリナと承太郎は、待機場所として指定された近くの喫茶店で、無言でお茶を飲んでいたが、件の駐車場はここから徒歩でも10分ほどの場所だったはずだった。
幾らなんでも遅すぎるのでは?とエリナが不安になりかけた頃、承太郎が口を開いた。

「…どうやら、置いていかれたようだな」
「え?」

エリナは驚いて、承太郎を振り返った。そして二度驚く。
出会った時から、不敵な表情をほとんど崩さなかった彼が、今はあからさまに痛みをこらえるような表情をしていたからだ。


「置いていかれた…って?」
「言葉通りだ―――”時期が来た”ってことだろ。多分あの二人は示し合わせて、今日俺たちの元から去るつもりだったんだ。ついでに俺たちを”引き合わせて”行ったってとこだろ」
「っっ!!」


承太郎の言葉の意味を理解した瞬間、エリナは足元から、何かが崩れていくような気がした。
そうだ、わかっていたではないか。
ずっと共にはいられない。
何故なら、ジョナサンは出会ったときから、まるで外見が変わっていないのだ―――おそらくエリナたちとは、根本的に年の取り方が違うのだ。
だからいつかは、彼が去っていくだろうとわかっていた。
けれど、こんなふうに突然、”その日”が来るなんて思っていなかったのだ。

「…あの”ディオ”を殺すところをわざわざ見せつけたのも、きっとそのためだろうな―――多分、あいつは『もう一人のアンタ』だ」

それを聞いて、エリナはすべての事情を察してしまう。
そうだ、おそらくあの”ディオ”は、かつてエリナのようにジョナサンと共に暮らしていた。
けれど、ジョナサンが去った後も、おそらく彼のことが忘れられずに、独身のまま、生涯を通したのだ。
だからジョナサンは、最後に一度だけ、彼に会いにいった。
彼が望んだように、その生気を、命を、最後に吸ってやるために。
そしてそれ故に、承太郎とエリナを、最後に引き合わせた理由も、わかってしまう。


ジョナサンと同じ種族であろう、ジョセフの”同居人”だったということは、承太郎もとても心が”綺麗”な人なのだろう。
だからジョナサンは、”承太郎”になら、エリナを任せられると、最後に二人を引き合わせて去っていったのだ。
勿論、恋愛感情というのは、それほど自由になるものではないから、エリナが、承太郎が、互いを好きになるかは、それこそかなりの賭けだろう。
だが、二人は残された二人が、自分たちが去った後も幸せになる”可能性”を、一つでも残していきたかったのだろう。
それはジョナサンの、ジョセフの、明確なメッセージだ。


((―――例え僕が(俺が)いなくなっても、キミが幸せであるように))


「…っ、」
エリナは思わず、喉をしゃくりあげ、涙を流した。
ジョナサンはひどい。
こんな風に、最後の最後で、自分を完全に”ふっていく”なんて。
でも、そこに込められた”想い”に、”愛情”に気付いてしまっては、幾らジョナサンのしたことがひどかろうが、エリナにはもう怒れない。
それでも、抑えがたい恨み言は、どうしても口から洩れてしまって。

「…ひどい、人」
「ホントに、な」

そういってハンカチを差し出した承太郎を見て、彼もまた、涙こそ流さないが、心の中では泣いているのだとわかった。
今日一度だけ見た、ひどく優しい笑みを思い出す。
あんな笑みを浮かべさせる相手に、突然去られたのだ。
承太郎だってきっと今、エリナと同じくらいに、”心が痛い”に違いないのだ。
けれど承太郎はエリナよりも、”今日”という日が来ることに覚悟が出来ていたのか、エリナに向き直っていった。


「…さて、これからどうする?」


そう尋ねてきた承太郎の言葉には、”自分たちのこれから”に対する問いも入っていると、エリナは無論気づいていたが。
今は答えることが出来なくて、「貴方は?」と逆に問い返した。
それに承太郎は「俺は…俺のやりたいようにする」と答えた。
だからエリナも微笑んで言った。


「そうね…私も、私のやりたいようにします」



                                             つづく

H2016.3.21(ピクシブより転載)

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