だからその手を握って   


プロローグ




病院内が急に慌ただしく騒がしくなる。急患が出たのだろう。
(…本当なら、あと10分で帰れるはずだったのに)
エリナは不謹慎とは思いつつ、心の中でつぶやいてため息をついた。何せ明日は早番で、遅くなればなるほど朝起きるのが辛くなるのだ。
もっとも自分がいくら寝坊をしようと、あの時間に正確な”同居人”が起こしてくれるだろうが。
「エリナさん、今の患者、処置後入院が必要そうなの。A病棟に部屋を用意してくれるかしら?」
「ええ、わかりました」
婦長にあくまでにこやかに対応しながらも、エリナは内心肩を落としていた。

(ジョナサンに連絡しないと…)

エリナは携帯電話が使用可能なロッカールームに入り、同居しているというのに、毎日のようにメールのやり取りをしている相手に対して、メッセージを入れた。
『ごめんなさい。また残業で遅くなりそうなの。夕飯は一人で食べてください』
本当なら久しぶりに一緒に食べられるはずだったのに―――そう思うとへこんでしまうが、すぐにメールの返事がかえってきて、エリナは思わず微笑む。
『帰り、何時ごろになりそう?危ないから、8時を超えるなら迎えに行くよ』
エリナはすぐに返事を打つ。
『たった今、急患が入って手術をしているところなの。早くても8時半までは帰れそうにありません。また連絡します』
『いつでも連絡して。待ってるよ』
『いつもありがとう、紳士さん』
『どういたしまして』
ジョナサンの最後のメールを見て、エリナはもう一度、微笑んで携帯を仕舞った。
そして思った。

ついさっきまではたまらなく憂鬱な気分だったのに―――ジョナサンが心配して迎えに来てくれると思っただけで、心のどこかがほっこりと温かくなる。まるで心の霧が晴れたみたいだ。
ジョナサンはたまに、自分が悩んだり、気に病んだりしているときに、その”力”で余分な感情を消してくれる。
けれど、本当はそんなもの、要らないのかもしれないと思う。
何故ならジョナサンがいるだけで、その心遣いに気づくだけで、自分の心は随分と軽くなる。
それだけで、こんなふうに笑えるのだから。

「さ、頑張らなきゃ」

エリナはロッカーを閉めて腕まくりをすると、歩き出した。
無論、少しでも早く仕事を終わらせて、ジョナサンに「帰るコール」を入れるためだった。





「あのさあ…俺、今朝電車の中で、お尻触られちった。キャッv」
「は?」

そんな話題が出たのは、いつものようにジョセフの手料理で食卓を囲み、今日あったことを話ながら、一緒に食事をとっていたときのことだった。
といっても承太郎は口達者なほうではないので、自然と話すのが好きなジョセフが主な話し手で、承太郎は聞き役となる。
そんな折、突然ジョセフが言ったのが今の言葉だった。
承太郎はご飯茶碗と箸をゆっくりと机に置き、口を開いた。

「あのな、じじい…それは『痴漢された』というんだ。しかも顔を赤らめて『キャッv』とかいうな」
「あれ?痴漢された女の子って、普通そういう反応をするもんじゃないの?」
「違う、阿呆。それにてめえは女じゃないだろうが…」

何せ、ジョセフはたまにとるじじくさい言動から、承太郎には”じじい”などという不名誉なあだ名を頂戴してはいるが、195センチもある長身の若者なのだ。
女顔でわりと細身とはいえ、それを痴漢しようだなんて、その男はなかなかのチャレンジャーだったといえよう。
ともあれ、承太郎は苛立ったように机を指で叩くと「それで?」と続きを促した。
「勿論、ただで返したわけじゃねえんだろうな?」
「ん〜それは勿論。別にお尻さわられたからって、俺は構やしないけど、あのおじさん、どう見ても常習犯だったし…野郎だけじゃなく、女の子もターゲットにしてそうだったしね―――可愛い女の子を泣かせる男は、ジョセフちゃんは許さないのです」
「構え、馬鹿」
「まあ駅につく寸前に限界まで”吸って”放置したから、あのおじさんすっ転んで、皆に踏まれて悲鳴をあげてたけどね。高いハイヒールはいてるОLとかもいたから、骨折れてねえと良いけど…」
「自業自得だろ」
「あれえ…承太郎、なんか怒ってる?眉間にしわ寄ってるよ」

誰のせいだ―――と承太郎は言いたかったが、この人間の思考には鈍感な”人外の生き物”が、そんなものを理解するはずがない。
承太郎の苛立ちを鎮めようとしてか、伸ばしてきた手を、承太郎は逆にとって言った。
「じじい、吸うんなら、こっちから吸え」
「…ん」
そういって重ねた唇から、ざらつくような不快な”何か”が抜け、代わりに温かなものがゆっくりと承太郎の中に満ちてくる。
これが”人外”の生き物である、ジョセフの力だった。
彼は人間の”生命エネルギー”を吸って、生きているのだ。そしてそのついでに人間の持つ”余分な感情”をも奪っていく。
けれど、今は”食事”のつもりはなかったのか、すぐに唇は放される。
”綺麗な精神状態”のときの生命エネルギーは美味しいが、こういった苛立ちや不快感混じりの感情は、あまり美味しくないらしい。
それから”心の汚い”人間のそれ、も。
だからジョセフは、自らのお眼鏡にかなった”絶品の生命エネルギーの持ち主”であるらしい承太郎の精神を、なるべく綺麗なままに保とうとする。
ただ、勿論承太郎も”ただ”でジョセフに”飼われてやっている”わけではない。
2人は納得づくで、一緒に住んでいるのだ。
こういうのもおそらく”ギブ&テイク”というのだろう。

「先にベッドに行ってろ…シャワーを浴びてから行く」
「ええ〜、今日も?」
「なんだ、嫌か?」

問いかけると、ジョセフはため息をついて言った。
「別に嫌ってわけじゃないけど、俺、明日朝一で、講義があるんだよね」
「…手加減はしてやる」
「そういってこの間も、俺の足腰立たなくしたじゃん」
「その分、翌日たっぷり食わせてやったろ」
「でも”食事”じゃ、腰の痛みとかは取れないんだよ〜」

むううとした顔をするジョセフに、承太郎は苦笑した。
恐らく、自分よりはよほど”世間”というものに精通しているだろうに、たまに驚くほど子供っぽい顔を見せる。
そんなジョセフを承太郎は気に入っていた。
”食事”の見返りとして、しょっちゅうベッドに連れ込むくらいには。

「心配すんな…うんと良くしてやる」
「ま、承太郎の精神安定にひと役買っているらしいから、別に良いけどね〜」

けれど口から出る言葉は、そんな可愛げのないもので。
もっとも人間のように”性交渉”に大した意味を持たないジョセフにしてみれば、仕方のない反応といえるのかもしれないが。
そんなジョセフの唇を、承太郎は自らのもので今一度塞ぎ、そして思った。

(…俺とは”違う生き物”のはずなのに、やっぱり唇は甘いんだよな)

ちくりと胸が痛んだが、承太郎はそれには気づかないフリをした。


*****


「ごちそうさま、ふー、美味しかったわ」
「はいはい、お粗末さま。エリナは相変わらず、良い食べっぷりだよね…作るこちらが嬉しくなっちゃう」
「だってジョナサンの作る料理って、とっても美味しいんですもの。それにカロリーの心配が要らないっていうのも、魅力的だわ」
「うーん、でもエリナはもうちょっとふっくらしたほうが、健康的で良いと思うんだけどね」

ジョナサンは苦笑しつつ、すっかりと空になった食器を片づける。
今日のメニューは英国風フルコースで、鰻の煮こごりにじゃがいもの煮つけ、マカロニ&チーズとサラダ。メインの肉料理はスコッチエッグで、スコーンにはお気に入りメーカーのソーセージと、甘いクロテッドクリームと苺のジャムをたっぷり添えて。
とどめに洋酒をふんだんに使ったフルーツのホールケーキだ。
それらを全部平らげたエリナの摂取カロリーは…というと、同い年の女性なら一週間ほど、断食に走るほどのものだろうが。
エリナにはその心配はなかった。
なにせ、摂取した余分なカロリーを、そっくりそのまま”生命エネルギー”として吸収してくれる、便利な”同居人”がいるのだ。

その同居人、ジョナサンは手際良く食器を片づけ終わると、エリナの横に来て座った。
そして、彼女の差し出した手を握り、そっと目を閉じる。
(…あ)
とても温かい感覚がエリナの中に流れ込み、それと同時に”何か”が握られた手の先から、吸収されていくのがわかる。
それこそが、ジョナサンたちが『糧』としている、人の生命エネルギーなのだ。
やがて「ふう」と息をついて、ジョナサンが手を放す。
それを見て、エリナは言った。
「ジョナサン、ひょっとして貴方、吸う量を控えてない?―――私は今のスタイルを変えたくないのよ」
「バレたか」
ジョナサンはそういうと舌を出して、もう一度、エリナの手を握った。
その様子に、エリナはそっと微笑んだ。


ジョナサンは自分とは違う、”人外”の生き物だ。その正体は…というと、エリナも良くは知らない。
ただ、ジョナサンのような生き物は、意外と世間に居るらしい。けれどその多くは非常に上手く人に”擬態”して、生きているのだそうだ。
そしてそんなジョナサンの”食糧”に選ばれたのがエリナだった。
といっても狼のように、頭からバリバリと食われるというわけではない。
ジョナサンは人の”生命エネルギー”を摂取して生きているのだ。

ジョナサンの話では、人の生命エネルギーというのは魂の在り様に影響されるらしい。
”綺麗な魂の持ち主”は、その分生命エネルギーも美味しいそうで―――だから彼ら一族は、綺麗な魂の持ち主を見つけると、様々な手を使って近づき、”寄生”するのだそうだ。
といっても、今のエリナの状況でわかるように、決して相手に害を成すわけではない。
ジョナサンの”食糧”であるエリナは美味しい食事と快適な生活をあたえられ、その代わりにジョナサンに”生命エネルギー”をあたえている。それだけだ。
おまけに”生命エネルギー”はカロリー摂取により増えるので、エリナは成人女性が日々に必要な摂取カロリー以外は、”生命エネルギー”として吸い取ってもらえる。
おかげで食べたいものをカロリーを気にせず食べたい放題という、世の女性がみれば羨ましくてたまらない立場だった。
(それに食事代も、ジョナサン持ちだしね…)
そう心の中でつぶやいて「そういえば…」とエリナは思い出す。

「ジョナサン、貴方も明日は出張があるから、朝は早いんじゃなかったの?」
「うん、そうだね…でも大丈夫。僕は人間ほど、睡眠は必要としないから。でもキミは早めに寝たほうが良いよ―――お風呂もわかしてあるから」
「ありがとう」

本当にいたせりつくせりだ。
ジョナサンは人の世に溶け込むため、普段は普通に会社勤めをしている。エリナは行ったことがないが、そこでも意外に頼りにされているのだそうだ。
ジョナサンが言うには、ジョナサンの顔がそこそこ端正なのも、家事や仕事が上手かったりするのも、すべて”擬態”の一部なのだそうだ。
人間の生命エネルギーを糧にしているからこそ、その”獲物”に近づきやすく、好かれやすい体質や性質を、自然と身に着けているという。
けれど、エリナに対してジョナサンが度々見せる「優しさ」やら「気遣い」は、彼本来のものではないかとエリナは思っていた。
あるいは、そう思いたいだけなのかもしれなかったが。

「じゃあ、お風呂に入って寝るわ。おやすみなさい」
「うん、お休み」

着替えを取りに行くため、自室へと歩きながら、エリナは思う。
ジョナサンとの同居は、ひどく心地良い。けれど、ずっとこのままじゃあいられないということもわかっていた。
エリナはもう、成人を過ぎている。
数日前に実家からかかってきた電話でも、「恋人はいないのか」「見合いをしないか」とせっつかれた。
エリナはジョナサンと一緒に住んではいるが、別に「恋人」というわけではない―――ただ、一緒に住んでいるだけだ。
”人外の生き物”であるジョナサンは、エリナの「恋人」にはなれない。だからもしエリナに「好きな人」が出来たら、すぐにも同居は解消するという取り決めになっていた。
けれど、ジョナサンと同居してすでに3年になるが、エリナにはいまだに”好きな人”は現れない。
”このまま現れないでも良い”と内心思っている自分にも、エリナは気が付いていた。

(…ずっとこのままで居られたら良いのに)

エリナはひとつ、ため息をつき、部屋のドアを開けた。
独りぼっちの灯りのない部屋を見ると、先ほどまで溢れていた幸せな想いが、急速に萎れていくような気がした。


                  
                                              つづく

H2016.3.21(ピクシブより転載)

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